UPDATE 2004年 1月 19日 (月)

崩壊したビル、燃える街、脱線した電車――阪神大震災直後の街を、当時、芦屋市の上住雅恵さんの絵画教室に通っていた子どもたちが描きました。幼い目がとらえた被災の実像への反響は大きく、日本各地さらにはアメリカでも巡回展が開かれました。あれから9年。描いた子どもたちや街はどうなったでしょうか。家族史も含めて紹介します。


▲森彩香さんの作品(当時7歳)
 森彩香さん(16)=芦屋市松浜町在住=は、当時7歳。住んでいた
同市緑町のマンションは一部損壊だけで、家族も無事だったが、クラスの半数が散り散りになり、校舎は避難所に。ガス・水道が途絶えた中、駆けつけてくれた給水車を描いた。

部活では、小さくて音階の高いエストランペット担当
 真っ先に思い出したのが、寒風の中で行列し、水をもらえたときのうれしさ。「小さかったので、助けてもらっている意味が理解できていなかったかも。後になって、ありがたさがわかるようになりました。今でもあの時の職員さんにありがとうを言いたいです」

 武庫川女子大附属高校入学後はマーチングバンド部でトランペットの練習ざんまい。同校は昨年の関西大会で金賞に輝いた。絵の方は、今ではいい気分転換。友人へのカードや文集のさし絵などに生かしている。


▲池口紗代さんの作品(当時14歳)
 街から色が消えた日――池口紗代さん(21)の絵は、黒いモヤモヤの中に壊れた家が描かれている。当時は親和中学(神戸市灘区)の2年生。住んでいた芦屋市精道町のマンションは無事だったが、周囲は全壊状態。隣りの家が壊れていく音を聞いた。同級生だった中北百合さんが亡くなった。弟の通う精道小学校でも多くの犠牲者が出た。

 震災前から通っていた絵画教室の上住先生に震災の絵を描いてと言われた時、とても描けないと断ったが、思い直して無理に描いた。

 震災直後から、父雅昭さん(51)の妹で、川西市に住む相京育子さんの家に弟と2人で避難した。阪神タイガースのエースだった村山実さんが親類で、父は村山さんのスポーツ用品会社で、村山さんの片腕として働いていた。村山さんは地震後も復興に奮闘していたが、3年後に亡くなった。
▲母親の雅子さん(左)は彫銀作家
その頃受験生だった紗代さんは、大黒柱を失った会社のために奮闘する父や母の負担を心配しつつ、京都造形芸大に進学。好きだった染色を学び、春には手芸用品のハマナカ(京都市)に就職することが決まった彫銀作家の母雅子さんと親子展を開く夢もある。 父の会社は何とか苦境を乗り切り、街の大部分は、あの日失った色彩を取り戻したが、大震災を思い出すといまも涙が出る。「生きていることが当たり前と思ってはいけない。毎日の命が大事だと思っています」

 失ったものの重さが、いま在るものの大切さを教えてくれている。


▲田中尋さんの作品(当時15歳)
 僕らの生まれ育った街をつぶしたのは誰なんだ? 中3だった芦屋市高浜町の田中尋(じん)さん(23)は、変わり果てた街の姿を素直に受け止められなかった。私立高受験を控え、午前3時頃まで勉強していた。眠りが深くなった頃、揺れが襲った。

 絵では恐ろしい形相の怪物≠ェビルや家をひと息で壊している。西宮北口の商店街、三宮のアーケード、甲東園の花火店…。友との思い出の場が一瞬で奪われた。ふだんは優しい神様が牙をむいたようだった。

▲「バイトを始めて改めて
父のたくましさを感じた」
と話す田中さん
 芦屋浜の高層マンションの8階。部屋の両側の本棚が倒れ、押し入れのふすまを突き破って荷物が飛び出しかけていた。しばらくは「ヘンな夢だ」と思っていた。月明かりが差す部屋で両親、妹と肩を寄せ合い、夜明けに西宮の祖父母宅へ。1月末に自宅に戻り、2月末の志望校受験は不合格だったが「震災のせいにはしたくないです」。

英知大学(尼崎市)の神学科へ進んだ。好きな英語を学ぶうち、カトリックなどに興味が出てきたからだが、「震災の神様≠ェ少しは影響したかしれません」と笑う。

 2年前に大学を卒業。現在は、海外で生の英語や教養を身につける費用を稼ごうとスーパーでバイト中だ。父たちのような復興の力を身につけるためにも日頃の備えが大切だと思っている。


▲瀬沼洋史さんの作品(当時13歳)
 炎の中に倒壊するビル。いま就職活動中の芦屋市浜風町、瀬沼洋史さん(22)が描いたのは、中1のとき。13歳だった。「テレビで見た三宮のビルの倒壊と長田区の火災です。自分の実体験じゃないからこそ描けたと思う」と振り返る。幸い、家族は無事だった。43号沿いを歩く途中、高速道路から落ちそうなバスを見て「テレビと同じだ」と思ったという。

 現在はボーイスカウトの指導員という立場に立つが、地元では「まだ震災はタブーな話題」という。
▲当時を語る瀬沼さん
指導する子やその家族たちが、それぞれどんな影響を受けたか、見えない部分があり、そう気軽には話せない。

 「だからこそ、この絵を描いた時の想像力や感性を大切にしたい。体験していない災害や戦争について知り、人の気持ちに立って後世に伝える上で大切だと思うから」


▲山根仁さんの作品(当時9歳)
 芦屋市高浜町の山根仁さん(18)は当時、芦屋市立浜風小の3年生。ニュースで見た阪急伊丹駅を描いたが、阪神高速で宙づりになったバスのイメージも重なっている。

▲「末っ子は気楽」
と話す山根さん
 「家族で一時、大阪の祖母宅に避難した後、3人兄弟の末の僕だけが滋賀県の祖母の実家に行き、1カ月間転校しました。田んぼとか多くて、友だちも親切で寂しくはなかったです」。いまは関学高校3年生。春から関学大の社会学部へ進学する。

 この9年間の一家の変化は、半壊した家からいまのマンションへの転居と大阪のおばあちゃんと一緒に暮らすようになったこと。大学に進んだら日本拳法部に入って体を鍛え、将来は広告業に進むのが夢。マンション購入のローンを抱え、共働きの両親は忙しいが、本人は「末っ子は、まぁ気楽ですよ」。家族の支え合いの中で、のびのび成長している。



 上住雅恵さんは京都市立芸大洋画科卒。千里で学生時代から絵を教え、芦屋に越してきた20年前に「芦屋児童美術教育研究会」を作った。被災後の3月に水道、ガスが復旧した時、地元に残っていた子らにこの経験を絵にしようと呼びかけ、世界にも知ってほしいと米領事館に交渉。95年9月にニューヨーク、10月にシカゴ、ミネアポリスでも作品展が実現した。自身も「都市」をテーマに97年から4回NYで個展を開き、この5月にも開く。夫はエンジニア。娘2人。長女はパリで建築学を勉強中。

 子らが絵を描くことに、どんな意味があるのか。言葉にならない心の傷は癒やせるのか――遺児の癒やしの家「レインボーハウス」(神戸市東灘区)顧問で、児童精神科医の清水將之・関西国際大教授に聞いた。
     ◇      ◇
 震災直後の2月上旬、西宮の避難所で小6の子らが描いた地震の絵を見ましたが、白黒や鉛筆画で筆圧が弱く、輪郭がはっきりしない。泣き顔も多かった。でも、1週間後には色も輪郭もしっかりし、自宅の崩れた部分をはっきり描いたり、水で苦労したからと海とイルカを描いたり、物資に並ぶ顔を克明に描いた子もいました。混乱の中でも子どもたちはきちんと物を見、感じていたのです。1週間で、これほど立ち直る力があるのか、と驚きました。

 人はつらい思いや体験をすると、やりきれない感情に苦しみますが、思いを言葉に置き換えたり、内面の変化を客観的に見られるようになるのは中3〜高1以降と言われます。小学低学年や未就学児は、体験や思いを言葉にすることができず、もやもやした苦しさが残る。だから言葉以外に気分や情緒の表現の手段を持つことが大事です。

 絵、音楽、粘土遊び、砂遊び、ダンス…気持ちの一部を吐き出せるなら何でもいい。子ども自身が、自分なりの表現方法を見つけられる環境作りが大切だと思います。





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